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父はブントのリーダー、母は元国会議員、黒岩宇洋氏の両親の人脈がすごい



学生運動の中心にいた黒岩卓夫氏

8月9日の衆議院法務委員会で行われた、平沢勝栄議員の黒岩たかひろ法務大臣政務官への質疑。斎藤まさし氏と荒岱介氏の対談が紹介され、その中で「全部言うとつながりがばれちゃうから」という発言が引かれている。また「新潟の黒岩宇洋君とかね」「ブントの黒岩(卓夫)さんの息子さんですね」などの会話もあった。

黒岩たかひろ氏の父親については、自著の中で「ブント(共産主義者同盟)の本郷細胞のメンバーになった」と記していたことも取り上げられた。黒岩たかひろ氏本人は詳細は知らないとしながらも、「父が学生運動を当時していた」ことについては、知っていたと答弁している。
共産主義者同盟 - Wikipedia

調べてみると、黒岩卓夫氏はお医者さんで、東大医学部時代に学生運動に参加されておったようです。2004年、第13回若月賞の受賞講演の中で、「徐々に目覚め、マルクス主義なるものに興味をいだき、自分を語れる言葉を獲得していった」と述べている。また、60年安保闘争に参加した時には、「全学連は国会構内突入をはかり、私は重傷を負った」とも話している

同じ講演の中で、ハルピンでの体験の件があり、「私にとって毛沢東の軍隊は、弱い者の味方だとはっきりと網膜にやきついている」と述べている。旧日本軍については、「棄民と言う以外に言葉がない」とも指摘している。

石井暎禧氏によれば、黒岩卓夫氏は東大医学部自治委員長だったらしい。重傷を負った黒岩卓夫氏が逮捕されないように、医学部の手術室にかくまった話なども出ています。

卓夫氏は60年安保闘争の中心にいた人物の一人のようです。東大医学部は本郷キャンパスにあるので、、卓夫氏が著書の中で述べている「ブントの本郷細胞のメンバーになった」という、平沢議員の質疑とも一致します。

その後、政治活動からは離れ、新潟県で「ゆきぐに大和病院」を開業されたとのこと。石井暎禧氏によると、「ゆきぐに大和病院はブント系の医者のたまり場というか、亡命先」だったらしい。

また、若月賞受賞祝賀会の発起人を見てみると、民主党から都知事選に立候補した樋口恵子氏、社民党・阿部知子氏などの名前もある。かつての同士が集まって、かなりの人脈が築かれていたことは間違いないようです。


なお、阿部知子氏に関しては、1995年の参議院比例区に『平和;市民』から出馬している。『平和;市民』はMPDから派生した団体で、市民の党と連なる団体とも言えそうですが、詳細はよくわからない。

また、2009年の衆院選挙においては、市民の党所属の元藤沢市議が自らのHPで、社民党や阿部とも子氏への投票を呼びかけていたことを明かしています。市民の党と阿部知子氏の関係というのも、気になるところ。
市民の党メンバーが民主党の宮崎岳志氏の秘書になってた


政界進出を果たした黒岩秩子氏


黒岩たかひろ氏の母親は、かつて『新党さきがけ』から立候補して参議院議員も務められた黒岩秩子氏です。

黒岩卓夫氏が若月賞の受賞講演の中で、「羽田空港へのデモで知りあった北大路秩子と後に学生結婚することになった」と述べていたり。秩子氏のHPを見ても、「黒岩卓夫とは1960年の安保デモで知り合い、その年に学生結婚。」とあります。夫婦揃って学生運動をやっておられたようです。
黒岩秩子のホームページ

秩子氏が参議院比例区に新党さきがけから出馬したのが1995年、この時は次次点で落選しました。当時の新党さきがけには、菅直人氏、鳩山由紀夫氏、枝野幸男氏、前原誠司氏、小沢鋭仁氏、玄葉光一郎氏など、現在の民主党の中心にいる人物が在籍していました。翌年の1996年に民主党が結成され、ほとんどのメンバーが民主党に移籍しています。
新党さきがけ - Wikipedia

「30年来の付き合い」である菅さん、斎藤まさし氏の関係は明らかになっているので省略。『さきがけ』に関しては、1998年の参院選で、中村敦夫氏の選挙活動に関わっていたことを、斎藤まさし氏が講演などで明かしています

そして2001年3月、『さきがけ』の参議院議員だった堂本暁子氏が千葉県知事選挙に立候補します。それにともなって、5年前の選挙で次次点だった黒岩秩子氏に、繰上げ当選のお役が回ってくることになりました。と言っても、任期は同年7月までの5ヶ月だけ。参議時代には、『さきがけ』の人手不足もあって幹事長も務めておられたようです。任期満了後にふたたび参院選に立候補するも落選されます。

2003年の東京都知事選挙では、民主党の支持を受けた樋口恵子氏の選挙対策委員会に参加されます。樋口恵子氏は若月賞の選考委員で、翌年の2004年には夫の黒岩卓夫氏が若月賞を受賞されています。選挙を手伝った見返り、というわけでもないとは思いますが、人脈が活かされた結果ということは言えそうです。

2001年 堂本暁子さん千葉知事立候補に伴い、繰り上げ当選で参議院議員5ヶ月間
2002年 長男宇洋が参議院新潟補選で当選、5月から12月、新潟の地元秘書
2003年 1月 イラク戦争に反対する意見広告、呼びかけ人の中の世話人
      2月 東京へ単身引っ越す。(千代田区一番町)
       東京都知事選で、樋口恵子選対、埼玉県知事選で、坂東真理子選対

一方で、2010年に書かれた日記では、安保闘争についての反省もなさっています。「安保改定で、対等に近づくことにも反対していたのですから、少々矛盾もあった」、「あの頃は、ソ連とか北朝鮮を理想の国だと思ってしまっていた」、「そういう「誤解」から解放されるには、1989年のベルリンの壁崩壊まで待たなくてはならなかった」など。北朝鮮や赤軍派とのつながりが指摘される、斎藤まさし氏ら市民の党とは、一線を隔しているようにも思えます。

追加 ; 2011年3月の『フォーラム21湘南』、野中広務氏や阿部知子氏との写真。政界に広い人脈を持っていることがうかがえる。
(cache) あべともこ と共に歩む会 : 時代への証言/野中広務さん

楽屋にて、黒岩秩子さんと
左から黒岩秩子氏、野中広務氏、阿部とも子氏


市民の党とつながる黒岩宇洋氏

調べた範囲では、黒岩氏のご両親と斉藤まさし氏、市民の党との直接的なつながりは見つかりません。『友達の友達は市民の党』くらいのつながりはあるようですが。

直接の関係となると、やはり黒岩たかひろ氏もボランティアで参加したという堂本氏の千葉県知事選挙でしょうか。ここで市民の党関係者と知り合った点については、たかひろ氏本人がブログなどに記していました
『全て潔し』黒岩たかひろ氏が、市民の党がらみの記事をブログから削除

その後、黒岩たかひろ氏が新潟の参議院補欠選挙に立候補した際には、民主党、社民党などの推薦を受けています。ご両親の人脈が活かされた結果なのかもしれません。黒岩氏のご家族は、新潟で強い地盤をもっていたこともうかがえます。
二世秘書の対決=新潟

この選挙には斎藤まさし氏をはじめとして、市民の党が全面的に協力していたようです。市民の党をつくる新聞『新生』の中でも、たびたび取り上げられています。『新生』の記事では、「黒岩候補本人の強い要請で斎藤まさし市民の党代表(本紙主筆)が選挙戦のアドバイザーをつとめた」と書かれている。この通りだとしたら、堂本知事の選挙で市民の党の力量を間近にして黒岩氏が協力を仰いだということなのか。

こうして何度も取り上げていることから、市民の党サイドの選挙活動も熱心だったことがわかります。斎藤まさし氏の、「全部言うとつながりがばれちゃうから」という発言が示すように、ご両親の過去の活動や、それに関係する人脈があってのことなのかもしれません。

黒岩たかひろ氏本人は、「主義主張や何かを教えを請うたこともありません」と答弁されています。そうは言っても、周囲の人間環境によって主義主張が影響を受けることはよくあることです。実際に、横浜市議会で除名処分を受けた市民の党議員を擁護するようなこともブログに書いていた。

市民の党が擁立した、よど号ハイジャック犯と拉致実行犯の息子さんについても同じです。両親が赤軍派だとか、北朝鮮生まれだからダメだということはできません。しかし、政治家として活動される以上は、どういった信念をもっているのか、はっきりと示してもらう必要があります。『無党派』、『無所属』、『市民派』などの言葉で主張を隠されてしまうと、有権者は正しく判断できません


※以下は余談、というかややゴシップ的な話。
黒岩秩子氏の旧姓は北大路秩子ですが、弟の北大路順信氏はヤマギシ会の理事のようです。黒岩たかひろ氏の叔父にあたります。たかひろ氏が参院補選で当選した際には、週刊新潮にも取り上げられていました。ヤマギシ会は循環型農業、あるいはカルトとして有名ですが。ヤマギシに は安保闘争に敗れた人達が参加している、というような噂もあるが、実体はよくわからない。
週刊新潮 05/30日号 <ワイド・いやな噂>新潟補選で圧勝「黒岩参院議員」一家はヤマギシ会信者
幸福会ヤマギシ会とは - はてなキーワード




第177回国会 法務委員会 第17号(平成23年8月9日(火曜日))より抜粋

平沢委員
 言うまでもなく、斎藤まさしが、これは選挙を手伝うことで有名なんですけれども、斎藤まさしがある雑誌で、荒岱介と、これはブントのリーダーですよ。ブントというのは共産主義者同盟。そこからどんどん分かれていくわけですよ。それで、よど号のハイジャック犯だとか、日本赤軍だとか、共産同戦旗派だとか、いろいろな方に分かれていくんですけれども、このブントの代表でもある荒岱介と斎藤まさしが対談しているんです。

 その中で何と言っているかというと、荒岱介がこういうことを聞いているんですよ。「斎藤さんは選挙で、いろんな人を当選させてきました。」ということで、どんな人だと聞いたら、「全部言うとつながりがばれちゃうから」と。これは斎藤の発言ですよ。「全部言うとつながりがばれちゃうから」と。その中に、例えば「新潟の黒岩宇洋君とかね。」こう言っているんです。そうしたら、ブントの荒岱介が何と言っているかというと、「ブントの黒岩(卓夫)さんの息子さんですね。」こう言っている。これは事実ですか。

黒岩大臣政務官
 私はその対談は承知しておりませんし、私は、そのブントというもの自体の存在も、今、平沢委員がおっしゃったような日本語名等も詳しくは存じ上げておりません

 そして、今おっしゃった中に私の父の名前が出てきたようですけれども、その直接の関連性なんというのは、もちろん私は全く承知しておりませんので、それについて、今ここで詳細に私が何かを言及するということはできません。

平沢委員
 お父さんのことは別に、それは個人個人だからいいんだけれども、あなたは今、法務政務官という公安調査庁の上にあるから私は聞いているんです。公安調査庁を統括する立場にあるから聞いているんです。

 だから、例えばお父さんだって、お父さんはブントだったんでしょう。お父さんはブントだったんでしょう。

黒岩大臣政務官
 それについては、何を定義で何であるというようなことが、ちょっと私、またそこら辺は詳細に整理させていただきますけれども、今の委員の質問に対して、であるかどうかというのは、私は今時点では承知をしておりません。

平沢委員
 私も、これはこういうところで言うのは余り本意じゃないんですけれども、やはりあなたは公安調査庁を統括する立場だから言わせていただく。

 これは、あなたのお父さんの書かれた本なんです。あなたのお父さんの書かれた本の中に、安保闘争のころですけれども、「ブントの本郷細胞のメンバーになった。」とはっきり書いてあるんですよ。だから、荒岱介が言っているだけじゃないんですよ。あなたのお父さんが書かれた本の中に、ブントの細胞に入ったということが書かれているんです。だから聞いているんです。

黒岩大臣政務官
 父が学生運動を当時していたということは私も息子として聞いておりますけれども、ただ、それは、父と私は当然別人格でありますし、私は、東京に出てきて、自分で学校に入って、少なくともそういった、父と、何かその当時の主義主張や何かを教えを請うたこともありませんし、自分は自分として物事を考えてきたというつもりであります。そのことは強くここで申させていただきたいと思います。





第13回 若月賞受賞講演レジュメ(平成16年7月) 『大地の子と地域医療』 黒岩卓夫

3.ハルビンと毛沢東の兵士たち
 ハルビンは、日本が負けてまずソ連軍が占領した。ついて蒋介石の国府軍がそして最後に毛沢東の八路軍が入城した。このときは何の抵抗もなく八路軍が占拠したが、その行進する兵士をみて、これは良い軍隊だ、自分たちの敵ではないことを直感した。少年兵も交え実に和気合々した有様は、親しみさえ覚えた。これが街で恐れられていた八路軍かと疑うほどだった。
 私にとって毛沢東の軍隊は、弱い者の味方だとはっきりと網膜にやきついている

4.棄民
 山崎豊子も「棄民」という第二章を設けている。棄民とは何か。国が自国の民を見捨てることである。実はソ連参戦侵攻時には、関東軍は満州の防衛線を南半分(長春・トモン線)に下げ、北半分を放棄していた。とりわけソ満国境につくられた、いわば屯田兵に近い開拓団は、青壮年を全て招集され、女子供老人だけの20万人の集団になっていた
 重戦車や、飛行機で猛進するソ連軍にとっては、私たちは赤子にも等しい無力の群れにすぎなかった。
 本来なら、まず女・子供・老人たちを帰国させ兵をもってあたるべきものが全く逆になっていたのだから、棄民と言う以外に言葉がない
 これは沖縄と同じであり、広島・長崎も同様に考えることができる。
 私はこうした国の子と自分を思いたくない。

9.学生運動と自己実現そして結婚

 脅迫神経症から逃れるように大学に進んだが、ここでまた壁にぶつかった。農村と都市の間の壁だった。私は都会の学生に通じる言葉をもっていなかった。要するに自分を語れないのだ。
 そこへ学生運動とぶつかり、砂川、教育三法、警職法と反対運動が連鎖するなかで、徐々に目覚め、マルクス主義なるものに興味をいだき、自分を語れる言葉を獲得していった
 1960年1月、60年安保闘争は1月16日の調印のためアメリカへ向う岸渡米阻止闘争から大きなうねりとなっていった。その時羽田空港へのデモで知りあった北大路秩子と後に学生結婚することになった。
 そして6月15日、全学連は国会構内突入をはかり、文学部の樺美智子さんは死亡し、私は重傷(?)を負った。私は幸いにして8時間余の意識不明から目を覚ますと、後遺症は何もなかった。圧死しそこなったのである。
 安保闘争が終わって、夏のキラキラと輝く太陽がなぜか強い印象に残っている。
 私はマルクス主義そして学生運動の中で、私の体験、戦争、引揚げ、難民、妹と弟の死、信州の山村、貧困そして大学への道呈を自分の言葉にすることができるようになった
 そして妻秩子は都会育ちだったから、この結婚は農村と都市との壁を溶かす触媒でもあった。




世話人黒岩卓夫さん第13回若月賞受賞 受賞記念祝賀会の御案内

 「人それぞれの信念と理想に従って保健・医療・福祉の分野で真摯に活動している方々を顕彰する」として「若月賞」が設定され、「若月俊一先生のような社会的に真摯な生き方を追求しようとしている方々」が、毎年受賞されています。
 黒岩卓夫さんは本年2004年7月に第13回若月賞を受賞。その受賞式にて「太地の子と地域医療」と題した受賞講演を行われました。 
 黒岩卓夫さんは地域医療のパイオニアとして「ゆきぐに大和総合病院」で活躍され、その後は「萌気園浦佐診療所」を核とした地域医療とケアのネットワークづくりを展開しておられます。  
 つきましては下記の通り、黒岩卓夫さんと関わりのあった人たちが一同に会してその受賞を祝賀し、お互いの交流を深め、「黒岩卓夫さんの第13回若月賞受賞記念祝賀会」を開催致します。

発起人                     
   樋口 恵子   高齢社会をよくする女性の会 代表 第13回若月賞選考委員
   鎌田 實    地域医療研究会 代表世話人                
   伊東 弘泰   NPO在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク副会長
   石井 暎禧  医療法人財団石心会 理事長
   斉藤 芳雄  ゆきぐに大和総合病院 院長      
   阿部 知子  衆議院議員




『聞書き〈ブント〉一代――政治と医療で時代をかけ抜ける』 より

第1章 前史としての六〇年安保

1958「遅れたせいで、ダブらずに医学部に行った黒岩卓夫と同級生になりました。彼は信州の田舎の高校出身だったんですが、女房のほうが日比谷高校で僕の後輩でね。北大路秩子さん。彼女の学年には僕の弟とか加藤紘一もいました。」(市田・石井[2010:18])

1960 黒岩卓夫(東大医学部自治委員長)(市田・石井[2010:27])

 「こっちからは東大本郷の部隊が最前列で、あっちからは委学連の部隊が医科歯科を中心にして、どーんと。樺美智子(東大武勲学部)、黒岩卓夫(東大医学部自治委員長)、丸山文昭(東京医科歯科大学、医学連副委員長)ほか一名、と四名の重体者が出るんだけど、それを聞いてうちの親なんかびっくり仰天でしたね。樺さんを含む三人は全員、息子から聞いてる名前なわけです。医学連の部隊が特に強かったとか政治方針が過激だったとかじゃなくて、東大本郷と仲いいから同一歩調を取ったというだけです。たまたま被害甚大になるような場所に行ってしまった。」(市田・石井[2010:27])

「黒岩は、ここで東大の自治委員長を逮捕させるわけにはいかないので、一か月集中治療室に閉じ込めました。逮捕されないように、大学も保護してくれた。怪我もそうとうだったけど、「隠した」んです。」(市田・石井[2010:27])



註07 「一九三七年生れ。医師。現在、医療法人財団萌気会理事長ならびに萌気園浦佐診療所(新潟県南魚沼市)所長。婦人の秩子(一九六〇年に学生結婚)は、数学教師、保育士として働いた後、新党さきがけの参議院議員も務めたことのある政治家。現在は南魚沼市で大地塾を主宰する。」(市田・石井[2010:40])


第5章 地域医療という新舞台

1977年「八月に、同志になれそうなところを僕と黒岩でかき集めて、地域医療懇談会というのを開くんです。こじんまりとした交流会ですけど。夏だったし、遊びの要素も半分入れつつ、葉山でディスカッション。これがその後、医療分野において、ゆるいけれども一種の一派をなすものに育っていきます。その記念すべき最初の一歩が七七年の夏です。僕にとってはその後いろいろと社会的発言や活動を再開していくなかで、つねに”バック”をなしていた勢力ができはじめる。[…]
 集まったのは、うちの病院と黒岩のところ――あついはもう浦佐(新潟県)で「ゆきぐに大和病院」をはじめてた――以外では、関西の阪神医療生協――元は社会党系――の今泉さん、精神科では初音病院、これから病院作るぞとぶち上げていた九州の松本文六たちでしょ、それから当時民医連から脱退していた京都の堀川病院なんかも来てくれた。僕は堀川病院とは親しくしてて[…]」(市田・石井[2010:225])

 「「ゆきぐに大和病院」はブント系の医者のたまり場というか、亡命先でね。亀も五、六年はいたかな。それから斉藤芳雄も。芳雄ちゃんが黒岩から院長職を引き継いだ。ブント系でもって先駆的な、二木立が言うところの「医療・保健・介護複合型」施設を整えていったんてず。でも結果的に富と、その先駆性が足を引っ張ることになっちゃった。介護や在宅のほうに引っ張られて、地域病院としては非常にまともなんだけど、医療本体のほうが追いつかなくなるんです。脳外科、循環器科、さらに心臓も外科と内科に区別する、というふうに専門分化していく医療の高度近代化をやりきれなかった。
 それに対して諏訪中央病院のほうは[…]」(市田・石井[2010:231])

 (これ=「ゆきぐに大和病院」)「これに対し諏訪中央病院のほうは、元々外科医師連合系だったということもあり、連中は、今井を別にすれば医療思想として特に左翼的ということはなかった。ただし、今井の近代派ブ・ナロード路線は佐久総合病院などの長野の病院運動を引き継ぐものとはして、病院全体を牽引していたと言えます。先端医療を田舎へ移植しようという発想だな。東京からその手の連中を連れてくるんだけど、ある意味では大学病院のコピーを作ろうとしたんです。病理やなんかも東大から引っ張ってきた。研修重視の姿勢も僕なんかより先に強く打ち出してます。だから、<0231<大学に対抗して医局う作る路線だと言ってもいい。東大での医局解体路線がそういうかたちに”止揚”された。それと、外科は手術するんだから、病院でないとやれないでしょう。在宅だけでは立ち行かないんです。
 近代派ということで、徳洲会も途中から来てるのよ。」(市田・石井[2010:231-232])

 地域医療研究会に「代々木系も最近はけっこう来ます。初期にはしかし、共産党に近いけどもろに代々木ではないという若月さん(佐久総合病院)と早川さん(堀川病院)が、地域医療の先輩、先駆者として来てくれたぐらい。」(市田・石井[2010:234-227])

 「社会主義は結局、開発独裁でしかなかったし、左翼は国家論なしに「国家を打倒する」と言ってた。廣松さんだって、マルクスにはネガティブなかたちでの国家論しかないと認めてた。それに、国家を打倒する革命なしに、国家は市民社会のなかに段々と溶けて行っちゃっているんじゃないか。国家は死滅するのか、眠り込むのたかという議論が昔あった。僕は今、「眠り込む」に近い考え方をしてます。あるいは、段々と溶けて行ってるこの現在が「死滅」ということなんじゃないのか、と。」(市田・石井[2010:331])




「カンパとボランティアによる21世紀型市民選挙のススメ」
講演:市民の党代表 斎藤まさしさん
より抜粋

1998年参院東京選挙区 中村敦夫選挙の場合

 握手作戦はきわめて有効です。98年の参院東京選挙区の中村敦夫さんの選挙のときは、これがすごく有効でした。彼は朝が弱いので、朝の駅頭宣伝は組めない。中村敦夫選挙では、とにかく人がいるところを把握することが大切でした。どの時間帯に、どこに行けば、人がいるのか。東京都内全域で、まんべんなく全域の住民に知らせるにはどうするか。もっともたくさんの人たちと握手するにはどうするか。中村敦夫さんの選挙では、そのために、選挙期間中、最初から最後までの“スケジュールをどう組むか”を徹底的にやりました。




トピック 堂本参院議員が失職 黒岩氏が繰り上げへ

朝日新聞3月9日付 
堂本参院議員が失職 黒岩氏が繰り上げへ

 八日告示された千葉県知事選挙に立侯補した堂本暁子氏は、公職選挙法の規定により参院議員を失職した。堂本氏は一九九五年の参院選で比例区から新党さきがけの名簿順位二位で当選した。
 名簿三位の渡辺光子氏が九七年二月にさきがけを離党して当選資格を失っているため、四位の黒岩秩子氏が近く開かれる参院選選挙会の手続きを経て繰り上げ当選する。任期は堂本氏の残任期間となる七月二十二日まで。

◇ 参院比例区繰り上げ当選 黒岩秩子①さ新 くろいわちづこ▽61歳、社会福祉法人役員元高校教諭、保母▽東大

     (黒岩氏はヤマギシの中央調正機関理事、北大路順信氏の実姉




黒岩秩子ホームページより抜粋

私たち夫婦の50年

 私たち夫婦が初めてであって2010,1,15は50年目です。

 こんなことをここで言うのは、実は、それが、日米安保条約の改定50周年ということだからなのです。当時の岸首相は、1月16日条約改定の調印に渡米することになっていました。

~中略~

 あの頃、私たちが、心配していたのは、アメリカとの軍事同盟(と考えていました)において日本が対等になるということは、それだけ戦争への道が通じてしまう、ということでした。実は、そのころ地位協定のことも問題になっていました。「対等ではない」と批判していたのですが、安保改定で、対等に近づくことにも反対していたのですから、少々矛盾もあったのです

 あの頃は、ソ連とか北朝鮮を理想の国だと思ってしまっていたところがあるので、何しろ、当時、黒岩卓夫は「ソビエト医学研究会」というサークルに入っていたくらいですから。そういう「誤解」から解放されるには、1989年のベルリンの壁崩壊まで待たなくてはならなかったのです。もちろん、その前からソ連についての情報をマイナス面でも少しづつ得ていて、崩れる予感はあったのですが、あのようなドラスティックな展開があるとは、想像していませんでした。

 本当の意味で、日米が対等になるには、鳩山さんが以前いっておられたように「駐留なき安保」で通してほしいと考えているのですが、どうなることでしょうか?

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タグ : 民主党 市民の党 黒岩宇洋 

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